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ねぶた名人

青森ねぶたは、もともと町内会等の運行団体で手先の器用なねぶた好きの人たちの手によって制作されていました。仕事もそっちのけでねぶたを作るのは道楽以外の何ものでもなく、こういう人たちを「ねぷたこへ」(こへ=こへる・拵える~作るの意味)といいました。それが、青森ねぶたの制作技術が次第に高められていくに従って、ねぶた制作者は固定化、専門化していき、いつしか「ねぶた師」と呼ばれるようになっていきました。その中でも極めて高い技術でねぶたを制作し続け、ねぶた祭の振興に貢献してきたねぶた師を「ねぶた名人」に推薦し、これまで7人がねぶた名人に認定されました。

 

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名人位認定表

名人 名人位認定 認定時
の年齢
受賞歴表=回数 生年 ― 歿年 享年
S37 H7 S42 S46 S43 H19
田村麿賞 ねぶた大賞 ※1 奨励賞 知事賞 制作賞 最優秀制作者賞 ※2
初代
北川金三郎
昭和33年8月22日 79 最高傑作『勧進帳』 明治13年(1880)-
昭和35年(1960)
80
2代
北川 啓三
昭和60年6月7日 80 3   2       明治38年(1905)-
昭和63年(1988)
83
3代
佐藤 伝蔵
昭和61年8月11日 61 8     4 3   大正14年(1925)-
昭和61年(1986)
61
4代
鹿内 一生
平成2年8月1日 66 7   2 4 2   大正14年(1925)-
平成3年(1991)
66
5代
千葉 作龍
平成24年8月1日 65 6 2
※3
        昭和22年(1947)- -
6代
北村 隆
平成24年8月1日 64 2 3
※3
    4 4 昭和23年(1948)- -
7代
竹浪 比呂央
令和5年8月1日 63   1
※3
      8 昭和34年(1959)- -
※1 平成7年より青森ねぶた祭の最高賞は「田村麿賞」から「ねぶた大賞」になりました。
※2 平成19年より「制作者賞」から「最優秀制作者賞」になりました。
※3 平成24年に制定された顕彰規準に基づく

 

初代 北川金三郎

北川金三郎  北川金三郎は明治13年12月26日に鍛冶町の桶屋の三男として生まれた。左官屋を営み成功した人でもあった。同じ町内の坂田金作についてねぶた作りを学び、若いころから自分で制作したといわれる。金三郎は坂田流のねぶたを厳密に踏襲したというが、それに満足せず、既成のものを大きくアレンジすることのできた希有な制作者であった。そして、理想的なねぶた人形の完成を目指した。桃太郎であってもどういう格好で鬼を押さえ付けるのが観客に映えるのかを 常にさぐった。金三郎のねぶたは立ち姿が真っすぐではなく、ひねっていた。
 戦後、ねぶたはすぐに復活するが、その中心は60歳を過ぎた金三郎であった。「北川のジサマ」と呼ばれるようになる。「北川のオンチャマ」こと息子啓三もねぶたを手掛けるようになる。金三郎はねぶたに新しい素材や、技術を意欲的に取り入れた。骨を従来の竹から針金に変えたり、蛍光灯を照明に使用したりした。そして、最高傑作といわれる「勧進帳」(昭和32年・東北電力)が生まれた。
 金三郎はまた息子北川啓三、佐藤伝蔵ら多くの弟子を育て上げた。まさしく青森ねぶたの中興の祖ともいうべき存在であった。それで、昭和33年に初めて「ねぶた名人」の称号が与えられ、昭和35年に他界。

勧進帳
昭和32年 東北電力「勧進帳」(青森ねぶた誌から引用)

2代目 北川 啓三

北川啓三  北川啓三は明治38年3月21日にねぶた名人北川金三郎の次男として鍛冶町に生まれた。通称「北川のオンチャ」で、12歳から父についてねぶた作りに加わった。また、幼少のときから父の師である坂田金作に教えも受けていた。14歳の時には稼業の左官業も取り仕切るようになる。大正末頃から東京方面に仕事の修行にいったが、このときに歌舞伎座などで芝居をよく見た。啓三は父(金三郎)の代わりにねぶたの大半を作っていた。特に絵には自信をもっていた。この父子の仕事内容(どちらが作ったか)にはさまざまな証言があるが、真偽のほどは定かでない。また、どちらのねぶたがすぐれているかもよく論議される。
 啓三は芸術家肌のねぶた師であり、人柄も厳しい人であったという。昭和30年代が絶頂期ですぐれたねぶたを次々に生み出していった。昭和37年から制定された第1回田村麿賞は啓三の「村上義光吉野の関所」(日本通運)であった。しかし、昭和40年代になると賞から遠のいていった。しかし、彼の残した業績が大きいことから、昭和60年にねぶた名人位が贈られた。晩年には小型ねぶたを作っていたといい、昭和63年に他界した。

村上義光吉野の関所
昭和37年 日本通運「村上義光吉野の関所」(日通ねぶた関係者所有)

3代目 佐藤 伝蔵

佐藤 伝蔵  通称「サドデン」。佐藤伝蔵は大正14年12月26日に旧筒井村の農家に生まれた。夜間中学卒業後、戦略物資輸送の船舶兵になったが、敗戦で帰郷する。子供ねぶたなどを作っているうちに、ねぶたに対する意欲が湧くようになった。
 最初の大人ねぶたは昭和29年の「岩見重太郎」(奥野)で優良をとり、海上運行となった。次第に名が知られていくが、研究熱心な伝蔵は初代名人北川金三郎に付いて学ぶようになった。しばらくして金三郎の息子啓三につく。昭和43年に「草薙の剣」(東青信用組合)で田村麿賞を受賞し苦労がむくわれた。その後は毎年のように賞候補となり、昭和57年から60年までの4年間は田村麿賞を独占する。
 伝蔵のねぶた作りは常に新しい技術にいどんだものであった。皆のいいところだけ取って素直に作ってきたという評価もある。まだまだ伝蔵時代が続くと思われた矢先、昭和61年に急逝した。享年61歳。惜しまれながらの最期であった。没後にねぶた名人位を贈られる。なお、伝蔵が、昭和48年アメリカからの沖縄返還を意図して、前年の47年に制作し田村麿賞を受賞した「国引」は、県立郷土館に保存展示されている。

国引
昭和47年 日立連合「国引」(青森ねぶた誌から引用)

4代目 鹿内 一生

鹿内 一生  鹿内一生の本名は勝男で、大正14年1月30日、旧荒川村に農家の三男として生まれた。小学校の頃からねぶたを作り始める。最初は東京で就職したが事情により帰郷し、さまざまな職についたが肺結核を患う。この間絵の勉強をしている。
 本格的なねぶた作りに手を染め出したのは戦後まもなくからであった。同郷の川村伯鳳に手伝ってねぶたを作ったのは1回だけだったが、一生は伯鳳を師匠としている。24歳のとき青森市漁協に勤務するが、ねぶた師としての道をめざして退職し、他の仕事で食いつなぎながらねぶたを作り続け、昭和40年に消防第三分団に組の「三国志呂布関羽奮闘の場」で田村麿賞の栄誉に輝いた。ついで昭和44年から3年間田村麿賞を独占する。特に昭和45年の「項羽の馬投げ」(青森市役所)は今でも語り草だという。しかし、肺結核が再発し、ねぶた作りも思うにまかせなかった。
 一生の業績のひとつは弟子の育成であった。「我生会」はそういう弟子の集まりである。自分のねぶたを次第に弟子たちに譲り、独り立ちさせていった。平成元年まで県庁ねぶたを作ったが、これが最期であった。平成2年にねぶた名人位を贈られ、翌平成3年に逝去。

項羽の馬投げ
昭和45年 市役所「項羽の馬投げ」(青森ねぶた誌から引用)

5代目 千葉 作龍

鹿内 一生  故千葉作太郎氏に師事し、大型ねぶたの制作に携わる。
 1967年に「青森ナショナル店会」の「船弁慶」で大型ねぶたの制作者としてデビューし、その後2011年までの45年間で、大型ねぶたを延べ141台制作した。
 受賞歴は多数あり、総合賞最高位の田村麿賞6回、ねぶた大賞3回の受賞を誇る。その内、顕彰基準に基づく最高賞は、田村麿賞6回、ねぶた大賞2回の計8回の受賞となる。
  ねぶた派遣への協力は、国内5回、海外3回の実績がある。
  また、平成4年より青森ねぶた運行団体協議会制作委員長として制作者をまとめ、ねぶたラッセランドにおける制作期間の制作環境向上などに尽力し、各制作者からの人望も厚い。
 更に、ねぶたの家ワ・ラッセの立ち上げに際し、ねぶた展示方法への各種助言を行うなど、ワ・ラッセが好評を得ている中で功労者の一人である。
 後継者の育成については、弟子の中から内山龍星氏、竹浪比呂央氏を大型ねぶたの制作者として輩出し、その功績は大なるものである。

項羽の馬投げ
昭和62年 サンロード青森「大石内蔵助 誉の討入り」

6代目 北村 隆

鹿内 一生  故北川啓三氏に師事し、大型ねぶたの制作に携わる。
 1966年より弟・明と共に「青森青年会議所」の「曾我五郎小林朝比奈草摺引」で大型ねぶたの制作者としてデビューし、その後2011年までの間の36年間に大型ねぶたを延べ81台制作した。
 受賞歴は多数あり、総合賞最高位の田村麿賞2回、ねぶた大賞10回、ねぶた制作部門の最高賞の制作賞4回、最優秀制作者賞4回の受賞を誇る。その内顕彰基準に基づく最高位は田村麿賞2回、ねぶた大賞3回、制作賞4回、最優秀制作者賞4回の受賞の計13回となり、基準を大きく上回る。
 ねぶた派遣への協力は、国内5回、海外2回の実績がある。
 特に、制作技術が評価されたことから、2001年にはイギリス大英博物館においてねぶたを制作、展示し、世界最高のペーパークラフトとして紹介され、青森ねぶたの素晴らしさを世界へ発信できたことは北村隆氏の功績が大であった。
  後継者育成については、弟子の北村麻子氏を大型ねぶた制作者として輩出した。

項羽の馬投げ
平成19年 青森山田学園「聖人 聖徳太子」

7代目 竹浪 比呂央

竹浪 比呂央

 1989年に大型ねぶたデビューし、1989年から2022年まで延べ70台の大型ねぶたを制作した。
 受賞歴は多数あり、総合賞最高位のねぶた大賞7回、ねぶた制作部門の最優秀制作者賞7回、優秀制作者賞を7回受賞している。そのうち、顕彰基準に基づく最高位は、最優秀制作者賞7回、ねぶた大賞1回の計9回受賞しており、基準を上回る。(2023年4月現在)

 ねぶた派遣への協力は、国内1回、海外3回の実績がある。
 師匠は千葉作龍で、2014年に弟子・手塚茂樹を、2023年に弟子・野村昂史を大型ねぶた制作者としてデビューさせた。
 ねぶた師を目指す若者が長く続けていけるような環境の整備を目指し、2010年に竹浪比呂央ねぶた研究所を設立。青森ねぶたの創作と研究を主としながら、「紙と灯りの造形」 としてのねぶたの新たな可能性を追求し続けるとともに、ねぶた独自の技術と感性を活かした多彩なデザインプロダクツの制作・販売を行い、ねぶた師を目指す若者たちに生活基盤を提供できるよう活動している。
また、京都芸術大学や青森公立大学で講義し、芸術・文化としての価値向上に向けた活動もしている。
 

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令和元年 青森菱友会「紀朝雄の一首 千方を誅す」

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