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ねぶた愛好会

隠岐の広有 化鳥を射つ

作: 愛好会一同




 建武元年(けんむがんねん)(1334年)に年が改まるや、疫病が流行して、おびただしい死者がでる。
 秋には、内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)の上に、夜な夜な、あやしげな化鳥(けちょう)「以津真天(イツマデ)」が飛来し「イツマデ、イツマ デ・・・」と鳴く。鳴く度に口から火炎を吐き、稲妻の光は天皇の御簾(みす)の中までも届いた。その不気味な声は、黒雲のなかから響きわたり、たちまち都 中が不安と不眠におとしいれられた。
 左大臣藤原時平(さだいじんふじわらのときひら)に仕えていた隠岐(おき)の次郎広有(じろうひろあり)に勅命が下り、これを退治することに。
 8月の月が輝く静かな晴れた夜、広有は、化鳥の出現を待っていた。
 やがて紫宸殿(ししんでん)上空に、黒い雲が差しかかり、中から「イツマデ、イツマデ」と化鳥が現れた。
 広有は弓と鏑矢(かぶらや)を持って現れ、しばらく化鳥を観察していた。突然、広有は矢から狩俣(かりまた)(先が二股に別れた矢)の鏃(やじり)を抜 き捨て、弓を構えた。化鳥が紫宸殿に下降してきたところで鏑矢を射放った。雲間に手応えあり、その瞬間、巨大な岩が落ちてくるような音がした。
 松明をもって駆け付けてみれば、鳥の姿は、頭は人のようで、体は蛇の形。先の曲がった嘴(くちばし)からは、鋸のような乱杭(らんぐい)の歯、両足は剣のように鋭い蹴爪(けづめ)があった。翼をのばせば一丈六尺(いちじょうろくしゃく)(約4メートル余)あったという。

≪「以津真天(いつまで)」≫
「以津真天(いつまで)」とは化鳥の名で、「イツマデ、イツマデ」と泣くことから。
戦乱や飢えで死んだ人の死体をいつまでも放置すると、いつまで死体をほっとくのか、という呪詛(じゅそ)を込めて「イツマデ、イツマデ」と泣くようになり、人の死体を食い漁る化鳥。
自分が見捨てた仲間を思って心を痛めたとき、その心の隙間を狙って現れるといわれる。


≪ 青森パナソニックねぶた会 2005年の大型ねぶた紹介
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