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東北電力ねぶた愛好会

義経・弁慶 安宅の関

作: 穐元 鴻生




 今からおよそ820年前、源平(げんぺい)の戦の後、源義経(みなもとのよしつね)は、はからずも讒言(ざんげん)によって兄頼朝(よりとも)と不仲となり、ついに追われる身となった。
 そして、義経主従(しゅじゅう)は、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)に向った。
 頼朝は、この動きを察知(さっち)し、各地に関所(せきしょ)を設(もう)けていた。
 ここはその一つ、富樫左衛門泰家(とがしのさえもんやすいえ)が関守(せきもり)として厳重(げんじゅう)な警戒に当たっている北陸加賀国安宅の関(ほくりくかがのくにあたかのせき)に、義経主従(よしつねしゅじゅう)が差(さ)し掛(か)かっていた。
 山伏姿(やまぶしすがた)に変装(へんそう)した義経主従。安宅の関を通過しようとした、まさにその時、関守(せきもり)富樫に疑われた義経主従。
 弁慶(べんけい)は、機転で東大寺復興勧進(とうだいじふっこうかんじん)のため諸国(しょこく)を廻(めぐ)る役僧(やくそう)と称し、白紙の勧進帳(かんじんちょう)を読み上げ通過しようとしたところ、義経に似たものがいると咎(とが)められる。
 そこで弁慶は、主君(しゅくん)義経が富樫に疑(うたが)われていることへの疑念(ぎねん)を晴らすため、あろうことか「義経に似ているとは何事か」と金剛杖(こんごうづえ)を持ち、義経を打(う)ち据(す)えた。
 富樫は、主君を打ち据えてまでその命を救おうとする弁慶の苦衷(くちゅう)を察(さっ)し、すべてを知った上で、義経主従の通行を許すのであった。
 その後、義経主従が休憩した道林寺(どうりんじ)において、例(たと)え富樫を欺(あざむ)くためとはいえ主君を打ち据えた罪の大きさに、生涯泣いたこ とのない弁慶が頭を垂れて泣き詫びたのだった。義経は、弁慶の智謀(ちぼう)と自分を思う気持ちに、「機知(きち)の働(はたら)きは天(てん)の加護 (かご)」と感激し、その労を厚くねぎらったという。


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