トップページ >  アーカイブ >  大型ねぶた紹介 >  青森自衛隊ねぶた協賛会

青森自衛隊ねぶた協賛会

三国志 関羽

作: 木村 富美男




 関羽は、蜀(しょく)を平定(へいてい)した劉備(りゅうび)の軍将で純忠精神(じゅんちゅうせいしん)を生涯一貫させた「剛将」である。魏(ぎ)の 国、曹操(そうそう)が東への進出の際、劉備(りゅうび)が黄河河北(こうがかほく)を支配していた袁紹(えんしょう)に救いを求めた時、下邳(か ひ)の守備を委(まか)されていた関羽(かんう)は、多勢に無勢のため曹操(そうそう)に降伏した。捕らわれた関羽(かんう)は、曹操(そうそう)から傘 下に加わるよう勧(すす)められたが断わり、曹操(そうそう)のため一働(ひとはたら)きして、助命(じょめい)された義理(ぎり)を返してから劉備 (りゅうび)のもとへ帰ることとした。曹操(そうそう)は関羽(かんう)こそ「天下(てんか)の義士(ぎし)」と誉め賛えた。このねぶたは、建安五年、袁 紹(えんしょう)が十余万(よまん)の大軍をもって曹操(そうそう)の支配する白馬(はくば)に攻め入った際、関羽(かんう)が敵の猛将(もうしょう) 「顔良(がんりょう)」の指揮旗(しきき)をはるか遠くに見つけると馬にムチを入れ、美しき髭(ひげ)をなびかせながら敵味方の見守るなか「顔良(がん りょう)」に襲いかかり、首級(しゅきゅう)を上げる場面を制作したものです。
 この戦いで関羽(かんう)は、曹操(そうそう)の恩に報い劉備(りゅうび)のもとに帰ると劉備(りゅうび)の政権確立(せいけんかくりつ)のため奔走 (ほんそう)した。建安二十四年曹操(そうそう)・孫権(そんけん)の両軍の挟み討ちにより捕らえられ臣従(しんじゅう)を断固拒否したため、十二月麦城 (ばくじょう)で処刑された。
 忠義(ちゅうぎ)の精神は、民衆から強い尊敬を得(え)、宋(そう)の時代から関帝廟(かんていびょう)として各地で崇(あが)められ、中国の守護神(しゅごしん)として鎮座(ちんざ)している。


≪ 青森菱友会 2003年の大型ねぶた紹介 青森市役所ねぶた実行委員会 ≫
掲載画像の無断複写・転載を禁じます。