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金魚ねぶたとは

ねぶた祭に出現した時代

 津軽地方に伝承されている民俗行事である「ねぶた祭」に欠くことが出来ないものに「金魚ねぶた」がある。金魚ねぶたは、本来は灯籠として作られたもので、その歴史も古くはないようである。

 それが何時の時代に作られ、また、何時からねぶたに組み入れられたものであるかは判然としないが、組み入れられたものとしては、比良野貞彦の天明8年(1788)「奥民図彙(おうみんずい)」の子(ね)ムタ祭之図、文久年間(1861~64)平尾魯仙の「津軽年中風俗画巻」に描いているねぶた運行の様子によると金魚がたらいに浮かんでいる型のものが見られる。また、今純三「青森県画」ねぶた運行の光景にも記録されている。

 これらから、江戸末期には既に金魚ねぶたが存在していた事になろう。

青森県における金業飼育の歴史

 青森に金魚が入り飼育されたのが何時であるかは不明であるが、外崎覚(幕末弘前藩の儒者)が著した「弘前城主越中守津軽信政(4代)」によれば、元禄9年(1696)に、白魚・鯉・鰻等の諸魚を播州や大阪から取り寄せ繁殖されたとあるから、その時に金魚も移入されたのではないか。また、明和年間(1764~1771)に藩士小和田覚兵衛が京都から持ち帰り7代藩主信寧(のぶやす)に献上したのが最初であるといわれている。

 これとは別に記録として、天明年間(1781~1788)になってから藩士斎藤勘蔵・柿崎某の2名が藩命によって飼育しており、その後文化年間(1804~1817)になってからは広く一般でも飼育されるようになり、その中でも弘前の工藤幸次郎、船水某の名が知られている。

 いずれにしても早くから上方より移入され、津軽地方において飼育され継承された金魚は地金魚と呼ばれ、それが今日の津軽錦である。(昭和2年弘前金魚協会によって命名)

 この間、地金魚を元にして改良されたと思われるのに明治43年弘前の宮本善三郎が作った弘錦があったが、今では見ることが出来なくなった。

金魚ねぶたは津軽錦への想い

 津軽錦は、長期間にわたって藩の保護のもとに飼育、改良を重ねた品種として出来た金魚であって、独特の趣きを持ったものであり、金魚を藩の産業としてとりあげ、その成魚を他藩への交易に充て藩財政の一助にと予定したが実現することは無かった。しかし、事業化は出来なかったが金魚灯籠・金魚ねぶたと形を変えて遺され、伝承されていることに救いを求める事ができるであろう。

 長い間、飼育・改良を続けていて、それが完成された事について、当時の人々にとっては大いに興味も関心もあった事と思われる。

 そして、その現物を見たいという願望が強く、その想いがせめてもの形として作り出されたのが「金魚ねぶた」となったものと思われる。

 そうする事が、多くの人の喜びであり、誇りでもあった事と思われる。

金魚ねぶたは本来は灯籠で祭りに参加

運行の中でのねぶた灯籠は

 記録資料からは、灯籠・たらいを載せる台に浪の図を描いた勾欄を組み合わせ、その上にたらいを載せたものに金魚灯籠を配しており、それがあたかも金魚の泳ぐ様子を表したものである。これをみても単なる灯籠でなくて一つの物語を表現しており、その事は他の造形・描写によるねぶたと同質のものといえよう。

 そしてこれが人々のねぶたに対しての想いを表したものではないのか。

ねぶた灯籠を門口に

 明治初期においては、ねぶたの季節になると、各家では門口に棒脚を付けた金魚灯籠を立て、その下に、水を入れたたらいを置き、灯籠に火がともされて、水に映るさまを観賞しながら巡ってくるねぶたを待っていたものだという事。まさに、短い夏を心ゆくまで楽しむという北国で生活する人々の心情が如実に表現されたものであったろうと想われる。

 人形ねぶたが造形・描写で動的なものであるのに対して、金魚ねぶたは静的な感じがするが、これはまさに祭りの在り方を表しているともいえるのではないか。

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巾着ネブタ 金魚ネブタ

 

金魚ねぶたの話ッコ アレコレ

幸せを運ぶ魚

 武家屋敷を覗いた人から「お武家様の池には、気味の悪い生き物が住んでいる。…シッポは二つ三つに裂け、背びれが無く、頭はアバタで斑や赤色をしている。なお、その生き物は苦しそうに血の帯をひきずって泳いでいる」との金魚を初めて見た人々から噂が振りまかれ、城下町は大変な騒ぎに……

 これを耳にした武家の人々、竹で丸を作り、紙を貼り、目に黒墨を入れ、「これは幸せを運ぶ魚なんだよ」と噂の誤解を解くために配って回った。

 それを貰った子供たちは玩具として手に持ち走り回って遊んだといわれている。金魚作りは藩の産業でもあり、弘前の武家の内職であり、金魚は名のとおり金を運ぶ魚、金運魚。つまり幸せの魚だった。

青森の金魚ねぶた

 青森の金魚ねぶたは、造花店(葬儀屋)が内職で作り始めたとされ、全体として丸みをおび、鱗が荒く、目の間隔が開いているので剽軽(ひょうきん)な顔であり、背びれは無い等々の特徴がある。

 金魚ねぶたの左右から下がっている紙のヒラヒラは、金魚がパクパクとやった時のエラからでてくる泡をイメージしてデザイン化したものであるといわれている。また、丸の大きな目玉の周りに、蝋でボツボツとくっついているのは「金魚の雄」の発情期にでる追星(おいぼし)といわれている。

科学の勝利

 金魚ねぶたは昔から和紙を貼って作られていた為破れやすく、特に雨に当たるとトケる、そのトケた格好たるや、刺身用にオロされた残りの鯛のアラのようで、見窄(みすぼ)らしいものになっていた。それが駅や商店の軒先に並ぶものだから、ナヌカ日(七日々=祭最終日)を過ぎた青森駅・新町一帯は、古川の魚市場の延長にも見えた。~そのくらい見窄らしかったのだ。

 いつしか、紙の金魚ねぶたも街から姿を消し始め、最近の大量商品化に伴って、昭和55~56年頃からビニール製の「金魚ねぶた」が作られるようになり、今では、平成の街並みを「ビニールの金魚ねぶた」が泳ぎ廻るようになった。

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